- 創業
- フロンティアゆえの苦難
- 時代を見通す目—自動車販売への進出と業界の発展を支えて
- モータリーゼーションの到来と品川グループの構築
- 第三の創業
- 第四の創業 —(株)品川グループ本社の設立と100周年
I. 創業
日本に初めて自動車が走った時期については諸説あるが、
1898年(明治31)1月11日の東京朝日新聞に「自動車初輸入」の記事がある。
この頃輸入された自動車は、蒸気式、電気式、瓦斯(ガソリン)式の3種類で、
1903年に富山県に制定された「乗合自動車営業取締規則」にも
3種の原動機それぞれの場合の願書記載事項が明記されている。
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1917年
品川忠蔵、品川自動車商会創業(タクシー事業)
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1920年
品川忠蔵、バス事業を開始
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1924年
品川忠蔵、関東大震災救護に車2台と運転手を伴って上京
1917年 赤いT型フォードで始まった品川グループの創業
銀座に日本で初めてのタクシーが走ったのは1912年。富山県に初めて自動車事業が誕生したのはその6年後の1917年。弱冠19歳の青年・品川忠蔵が、3台のT型フォードを擁して興したタクシー事業、品川自動車商会だった。この年の富山県内自動車登録台数は乗用3台、つまり、品川自動車商会の3台だけでした。真っ赤なボディカラーだったことから、市民からは「赤自動車」と呼ばれた。
忠蔵がいつタクシー事業での起業を思いついたのかは定かではないが、当時は運転手もいなかった。富山県知事に貸切自動車運輸事業の免許を申請するにあたって忠蔵は、名古屋から運転士を招き、「村の駐在所の警察官に同乗を求めて指導を受け、懸命に修練を重ねて、ようやく警察から技量を確認されて免許の光栄に浴した」という。富山東京が鉄道で結ばれたのは1913年。その頃すでに来るべくクルマ時代の到来を確信した忠蔵の時代を見抜く目と果敢なチャレンジ精神は、今も品川グループに脈々と流れている。
忠蔵はまた、当時高嶺の花だったクルマの利便性と経済性をアピールするため、数日間無料で市民を乗せて走り、好評を博したと伝えられている。クルマの可能性を見抜いたとはいえ、当時は人力車か馬車が全盛だった時代、品川忠蔵の起業は、フロンティアゆえの苦難の始まりでもあった。
1920年 乗り合いバス事業に進出
車の機動性、利便性をさらに多くの人々に知ってもらうため、1919年5月23日、忠蔵は貸し自動車営業許可を受け、乗合バス事業にも進出した。富山—新庄、さらには上市、岩瀬方面にと順次路線を拡大していった。
バスは初め定員5人のT型フォードを使っていましたが、乗客の増加に対応して、トラックシャシーに富山の大工に造らせた木製のボディを架装して使った。都会と地方の情報格差が今とは比べものにならなかった当時、忠蔵は東京に見学に行っては、いち早く新しい形を取り入れていたという。昭和に入るとバスは日を追って生活のなかに浸透し、小規模なバス事業者が急増しており、差別化を図る意味もあった。
また、当時の道路は、せいぜい大八車が通ることしか想定してないため、「県道で幅2間(約3.6m)、郡道では9尺(約2.7 m)しかなく、路面の凹凸もはなはだしく、橋梁に至っては完全なものは皆無であった」。タイヤが摩耗するだけでなく、クルマの損傷による故障も頻繁で、経営は決して楽ではなかった。
それでも、1928年にはバスだけでも12台の車両を有し、1930年になると、高岡市にも進出。中田町から、戸出や小杉、安川、高岡への路線バスを運営し、県内一のバス事業者に成長、タクシー事業とバス事業の2つを柱に県内一の旅客輸送業者に成長した。